一話『衝撃! えっ、俺オメガ!?』

「次のニュースです、世界的な少子化問題にたいして合計特殊出生率の深刻な低下を研究していました研究機関WTBは……」

 アスファルト上にいる人間達を鉄板焼きにしそうなほどに照り付ける太陽と同じくらいに、煩いほどに油蝉の声が響き渡る外と隔絶されたクーラの効いた室内で、インスタントの焼きそばを口の中へと掻っ込む。

 世界的な異常気象や火山噴火、地震台風火事おやじ……じゃなかった、伝染病の流行とTVのニュースを他人事のように聞き流していた。

 ピンポーン

 来客を知らせるチャイムが響いて来たので、部屋着の白いTシャツと黒の短パン姿で玄関に向かう。

「郵便です、受け取りのサインをお願いします!」

「あっ、はいはい」

 こちらへ向けて差し出されたA4サイズの封筒には、西條誠(さいじょうまこと)の名前と部屋の住所が書かれた伝票が貼ってある。

 一緒に差出されたボールペンで伝票の右下に、誠は自分の名前を受取人のサイン欄に書き入れた。

「ありがとうございました!」

 封筒から伝票を剥がした配達員を見送って届いたばかりの封筒を開ける。

「通販でなんか頼んだっけか? そんな覚えないんだが」

 面倒くさくなって封筒を上下逆にして軽く振ると、ボタボタっと床にプリントと何かの検査キットが落ちた。

「なんだこれ?」

 とりあえず届いたキットとプリントを拾い上げる。

「なになに……全国第三の性別国勢調査のご案内? なんだそれ」
 
 A4サイズのプリントには、現在60歳以下の成人に対して調査キットを配布している事、全国民に調査を依頼しており会社の健康診断か集団健康診断でも検査が可能であることが書いてある。

「現在配布されている国民健康保険証、社会健康保険証、年金記録カードを廃止、全国第三の性別国勢調査の結果を反映したものが新たな国民証明書として再発行されます……」

 無駄に丁寧にまどろっこしく説明が書いてあるが、早い話がこれまでの保険証が使えなくなるから、このキットを持って役場か特設の検査会場に来て、証明書を再発行しろということらしい。

 正直言ってめんどくさい事この上ないが、健康保険証が使用できなくなるのは困る。

「仕方ねー、さっさと終わらすか」

 どうやらこの検査キットは、少量の血液を採取して、検査場に送ると結果が封書で手元に届くらしい。

 シャープペンシルの換え芯が入っているような、薄く四角いキットを持って説明書通りに操作する。

 どうやら箱には向きがあるらしく、矢印が書いてある方を指先に当てる。

 そしてその反対を軽く押すと、針のロックが外れて指先に刺さり、指先から出た血液を自動的に箱の中に吸収する仕組みらしい。

 チクリとした痛みが指先に走り、使用し終わった検査キットを確認すれば、きちんと血液が採取出来たようだ。

 傷口を舐めると、さっさと検査キットを返信用の封筒に放り込む。

 休みの日まで、灼熱地獄の中を外出する気が起きずに、一日エアコンを効かせた部屋で柔らかな毛布を被って惰眠を貪る幸せにどっぷり浸る。

(これが恋人か可愛い嫁や子どもと言った家族がいれば、灼熱地獄の中だろうが喜んで外出するのかな……)

 翌日は仕事場へ向かうべく、スラックスと半袖のワイシャツを纏って玄関の扉に鍵を掛ける。

「あっ、検査キット」

 せっかく鍵を掛けたけれど、誠のいつもの行動パターンを考えれば届いた書類や頼まれた事は、後に回せば間違いなく忘れる。

「はぁ……めんどくせぇ」

 せっかく掛けた鍵を渋々開け放ち、テーブルの上に、無造作に投げ捨てていた返信封筒を掴むと、再度鍵を掛けて家を出た。

 まだ朝早い時間なのに、既に油蝉が煩いくらいに何匹も競うように鳴いている。

 誠の自宅である古いアパートは、通勤に使用する地下鉄の駅までそれほど距離はない。

 通勤途中にあるコンビニエンスストアの傍らに、ポツンとある郵便ポストへ封筒を投函し終えれば、もう役目は果たしたとばかりに忘れ去ったとしてもおかしなことはない。

 企業の出勤時間なんてどこも同じようなもので、定期的にやってくる地下鉄の電車は、誠と同じように出勤するサラリーマンで今日も満員だ。

 いくら嫌でもこればかりは仕方がないので、諦めて電車へと乗り込んでいく。

 ……誠の悩みはこの電車だ。

 出生率の低下と同じく、少しずつ女性の産まれる確率が減少していることもあり、地下鉄の車両の中には女性専用車両が設けられている。

 なので誠の乗るこの電車には、彼氏や夫と一緒に乗るのでなければまず女性は乗ってこない。

 男ばかりが鮨詰めの電車なのに、なぜか痴漢が出るのだ。

 (ちっ、またかよ!?)
 
 尻を撫でられるくらいなら可愛いものだが、下半身に伸びてくる不埒な手を叩き落とす。

 無言で繰り広げられるセクハラから、逃げるように電車を降りる。

(本当に……地下鉄に乗る時間ずらそうかな)

 まだ出社前なのに、既に精神力も体力も奪われたような気がしてならない。

 もしや座席に座れれば、痴漢野郎から逃れられるかと試してみたが、むしろ袋小路に追い詰められ目の前に盛り上がったアソコがズボン越しに迫る恐怖を経験してからやめた。

「おはようございます」

 勤め先の社員証をリーダーに翳すと、後ろからやってきた後輩の一宮黎(いちみやれい)に声をかけられる。

「おはよう一宮、今日も早いな」
 
「俺よりも早い西條先輩にはかないませんよ」

 一宮黎は、いわゆるイケメンてて女子に騒がれるタイプの奴で、その整った顔立ちと涼やかな目元、そしてこのクソ暑い中でもシワ一つないスーツを着こなす、まさに「デキる後輩」を絵に描いたような男だ。

 もちろん女子社員からの人気も高く、女性からモテた試しがない誠からすれば、一宮は「無自覚にコンプレックスを刺激してくる存在」でしかない。

 妬んでしまう自分に嫌気が差す時もあるが、そこは見逃してほしい。

「先輩、また地下鉄で災難に遭った顔をしてますね」

 一宮がクスクスと喉を鳴らす、こいつはなぜか俺を観察する悪趣味があるらしい。

 野郎を観察して一体何が楽しいのか、同性の芸能人に熱を上げ推し活して楽しむ連中がいることも認識はしているが、基本的に他人に興味がない誠としては、話したことも無い奴に興味などわかない。

 芸能人の名前を出されても顔が浮かばないから話についていけず、興味のない推し話を聞かされつづけるのにもうんざりで適当に流し続けた結果、まぁ孤立した。

 しかしなぜか社内の恋人にしたい将来有望な男性社員ナンバーワンの人気者一宮だけは、誠に懐いてくる。

 おかげで仲良くしたい女性陣からは、一宮に色目を使っているとかなんとか陰口を叩かれるしまつだし、男性社員からは冗談で男色扱いされる。

 マジで勘弁してほしい。 誠はどノーマル、同性相手に欲情するような特殊な性癖は持ち合わせちゃいないのだから。
 
「ああ、まただ。男ばっかりの車両で尻を撫で回される俺の身にもなれよ。俺はな、ふわっふわの女子と手を繋いで海にでも行きたいんだ。ムサイ男の脂ぎった手じゃなくてな!」

 誠が吐き捨てるように言うと、一宮の瞳の奥が一瞬、鋭く光ったような気がした。

 だがそれはすぐに、いつもの穏やかな微笑みに塗り替えられる。

「……そうですか。先輩は本当に、女性がお好きなんですね」
 
「当たり前だろ! 男なんて、自分も含めて鏡を見るのも嫌になるね」

 今も女性陣がチラチラと視線を向けている色男に、ビシッと人差し指……は行儀が悪いので指さないけども……
 
「特に一宮、お前みたいなモデルみたいな奴が隣にいると、俺の『ひ弱なサラリーマン感』が際立つんだよ」

 フンッと顔を背けて一宮のそばから離れるためにエレベーターに向かい足を進める。

 エレベーターの中は出勤時間も重なってこれまた狭いが、壁際に滑り込んだ誠のそばに、当たり前のように体格のいい一宮が乗り込み壁になっているので押しつぶさることが無いのはありがたい。

「さぁ、仕事仕事、一緒に頑張ろうな」
  
 誠は一宮の肩をパシッと叩いて、自分のデスクへと向かった。
 
 誠は自分のことを「ひ弱」だと思っている。

 ムキムキのボディビルダーに憧れて、一年身体づくりに精を出したこともあったけれど、成果は見ての通りで平均より少し細い体躯、夏バテしやすい体質からは脱却できなかった。
 
 そのかわり誠の身のこなしは風のように軽く小動物のように小回りが効く。

 アルファであり無意識に威圧してしまう一宮からみれば、自分に動じることなく無意識の毒舌や会話の切り返しをしてくる誠は生命力に満ち溢れているようにみえる。
 
 先の全国第三の性別国勢調査で一宮黎(いちみやれい)はすでにα(アルファ)の判定を受けていた。
 
 昨今WTB(世界保健機構)が発表した指針で、この世界は現在三つの性に分けられている。
 
 【第一の性:生物学的性別(Hardware)】区分: 男性 / 女性解説: 外生殖器に基づいた、いわゆる従来の「性別」。

 誠が力説し切望しているのはこの旧来の男女の区分へのこだわりだ。
  
 【第二の性:社会・心理的性別(Software)】区分: ジェンダー・アイデンティティ解説: 「自分は男(女)である」という自認。

 一宮に寄るなと言っているは、この第二の性の男であると言う自認が無意識に一宮と自分を比べてコンプレックスを起こしているのだろう。
 
 そして……今回全国調査された【第三の性:生殖・本能的区分(The Final Destiny)】区分:α(アルファ) / β(ベータ) / Ω(オメガ)解説:遺伝子レベルで決定されている「フェロモンによる支配・被支配」および「受胎能力」の区分だ。

 今までは一般人「ベータ」の中に優秀な人材「アルファ」や性同一性障害「オメガ」が混ざっているだけだと認識されていたが、WTBはこれを「独立した第三の性別(社会を構成する新たな基準)」として細分化し定義し直した……

 一宮はα(アルファ)だ。

 αとは「選ばれし支配者」であり人口の数パーセントに満たない。

 優れた知能と強靭な肉体を有し、そして他者を屈服させる「威圧」のフェロモンを持つ者たちで、社会の要職を独占するエリート層にこのα性の者が多い。

 β(ベータ)は「大多数の凡人」で人口の約9割がこの判定を受けることになる。 
 
 フェロモンに左右されず男女の性別のみで生殖を行うため、これまでの第一の性と変わらない平穏で自由な階級といえるだろう。

 そしてΩ(オメガ)「希少な生殖種」であり極めて稀に産まれる。

 性別に関わらず「受胎」が可能であり、アルファを惹きつける「甘い芳香」を放つ。

 かつては差別対象だったが、少子化の現代では「国家管理対象の資源」として扱われる事が、密かに決定している。

 今、優秀な人材を確保することは世界情勢に詳しい者達にとっては急務だ。

 これまでの世の中は優秀な遺伝子を持つアルファ同士で結婚するのが一般的だったが、長年の遺伝子研究の結果は真逆だった。

 アルファはその優秀さから、いわゆる一代で叙勲されるような貴族や経済での仕上がり上流階級に上がってくる者に多かった。

 そうして財産を築いた優秀な者を貴族や上流階級と呼ばれる権力者が婿や養子としてその優秀な血筋を取り込んできたのだ。

 優秀な血筋は優秀な血筋と交われば、更に優秀な後継者が産まれるはずだと信じて疑わなかった。

 しかし皮肉にもアルファ同士の婚姻は優秀な者を産むわけではなかったのだ。

 そうでなければ代替わりによって没落したり破産するわけがないのだから。

 それでも長年に渡り続いてきた血統信仰は根強く、上流階級間で代を重ねた結果、近親婚に近いくらいにアルファの血が濃くなりすぎてしまった。

 アルファの血が濃くなりすぎた結果、異常な出生率の低下と、子供を得られたとしても優秀性よりも残虐性が上回ると言う研究結果が、研究者によって発表されたのだ。

 未だに根強いアルファ血統信仰を続ける華族からいち早く抜けたのが、一代でのし上がった一宮黎の父親だった。

 一宮家の祖父の側には、幼少期から将来を誓い合った……一宮家の祖父の狂気とも呼べる執着を受ける女性がいたのだ。

 黎の父親も同様に、晩年親子ほどに年の離れた激しい執着を寄せる妾、性同一性障害の男性体を愛し続けた。

 そう、身体は男性体だったが、その妾が黎を産んだ事で騒ぎになったのだ。

 女しか子供を産むことが出来ないというこれまでの常識が瓦解したのだから。

 黎の父親は箝口令を敷き、この事実は一般人には伏せられることになった。

 男が子を孕むなど、一般人(ベータ)には到底信じられる事柄ではなかったし、ベータ同士やオメガと呼ばれることになった性同一性障害者同士の男女からアルファが産まれることはほぼ無かったのだ。

 しかし黎の父親は息子の黎ですら寄せ付けない程の執着、その妻に向ける熱量に疑問を持った研究者たちは、研究の矛先を変更することにした。

 現アルファ達の両親を調べ始めたのだ。

 結果、のし上がるアルファ達の両親のほとんどが弱いアルファとオメガの夫婦だったのだ。

 この結果をもとにして未婚のアルファ達の中から希望者を募り、オメガと思わしき男女を集めた小規模の集団見合いが行われ、翌年特級アルファが産まれることとなった。 
  
 そう、そんな特級アルファである一宮黎にとって、世界は常に「解像度が高すぎる」場所で、そのせいか幼い頃から、周囲の大人が何を考え、次にどんな言葉を吐くのかが手に取るように分かった。

 勉強もスポーツも、一度やり方を見れば「最適解」が脳内に描かれたし、実際にやってみれば他の経験者より簡単に成果が出てしまう。

 努力の苦しみを知る前に結果が手元に届いてしまう――それは、子供にとっては祝福ではなく、ただの『疎外感』でしかなかった。

 「一宮くんは、ちょっと……普通じゃないわね」 

 親戚たちのひそひそ話が黎の心に突き刺さる、同級生たちの、羨望を通り越した畏怖の視線。

 彼らに合わせるために、黎はわざと手を抜き爪を隠し、愚鈍な振りをし、少しだけ優秀な平均的な『β(ベータ)』の皮を被って生きてきた。

 自分の有能さを隠すことは、呼吸を止めて水の中に潜り続けるような、静かな窒息を伴う苦行だった。 

 その窒息が終わったのは、十八歳の春、アルファ家系へ対して先行で行われた国勢調査による本格的な性別適性検査の結果を受け取った日だ。 

 真っ白な封筒の中にあった、一枚のカード。 

 そこに刻まれた『判定:α(特級アルファ)』という文字を見た瞬間、黎が感じたのは誇りではなかった。

 (ああ……ようやく、息ができる) 

 それは、深い安堵と自分の中に存在するであろう渇望の自覚。 

 自分が「異常」なのではないただ『アルファ』という、別の生き物だったのだという証明。 

 この圧倒的な知能も、他者の思考を先読みしてしまう直感も、すべては「アルファだから」という一言で説明がつく。

 もう、凡庸なベータたちの顔色を伺って、自分の牙を研ぎ落とす必要はない。 

 アルファという階級は、彼にとって「特権」である以上に、孤独な天才に与えられた『免罪符』だったのだ。 

 それ以来、黎は自分の能力を隠すことをやめた。 

 群れから浮き上がることを恐れず、常にトップであり続け、他者を寄せ付けない壁を築いた。 

 黎も精通し、下級アルファ達に混じって合同お見合いに参加させられることが増えていった。

 しかし引き合わせられるオメガと思わしき男女の中に、黎のアルファとしての渇望が反応する者を見つけられずにいた。
 
 何年も経ったある日、見つけてしまったのだ。

 これまで会ったナヨナヨした中性的なオメガ達とは全く違う西條誠という男だった。

 「お前さ、顔はいいけど可愛げねーよな! もっと肩の力抜けよ、一宮」 

 アルファとしての威圧感(フェロモン)を放っていても、誠だけは平気な顔で、安っぽい缶コーヒーを差し出して笑いかけてくる。 

 ベータの振りをしていた頃の自分も、アルファとして君臨している今の自分も、誠にとっては「ただの一宮黎」でしかない。

(先輩……あなたは、自分がどれほど残酷なことをしているか、分かっていない) 

 黎は、誠のデスクに残されたままの、使い古されたボールペンを指先でなぞった。 

 アルファにはアルファだけのコミュニティがあり、希少なオメガの情報は最速で高値で取引される。

 黎の本能は誠がオメガだと告げていた。

 コレは黎のオメガだと……

 そしてコミュニティに誠がオメガだと診断され情報が出回った時、黎が覚えたのは、オメガ管理局への怒りと同じくらい深い『狂おしいほどの喜び』だった。 

 自分がアルファとして救われたように。 

 誠もまた、オメガという枠に嵌まることで、ようやく黎の「隣」に並ぶ運命(レール)に乗ったのだと。

(もう、ベータの振りをしなくていい。俺に合わせて、無理に笑わなくていい……あなたが女王なら、俺はその喉元を食いちぎる、唯一の番犬になりましょう)

 黎の瞳が、仄暗い熱を帯びて細められる。

 それは、孤独を知るアルファだけが持つ、歪んだ執着の愉悦。
 
 午前中の業務をこなし、昼休み。
 
 給湯室でカップ麺の準備をしていた誠は、後ろからかかる声に肩を震わせた。

「西條さーん、さっきの企画書、良かったですよぉ」

 声をかけてきたのは、他部署の中年社員だ。

 こいつもまた、なぜか誠のパーソナルスペースに踏み込んでくる「男」の一人だった。

 必要以上に顔を近づけ、誠の二の腕をベタベタと触る。

(うわっ、出たよ……)

 誠の「風属性」が発動する。
 
「あ、ありがとうございます課長! でもその手、さっきのカレーの匂いしません? 俺、鼻が利くんですよ。お姉さんの香水の匂いなら大歓迎なんですけどね!」

 明るい拒絶。

 誠は笑顔のまま、スルリとその手をすり抜けた。
 
 普通なら空気が凍りそうな場面だが、誠の持つ不思議な「陽」のオーラが、それを冗談に変えてしまう。

 これこそが彼が無自覚に備えている、オメガの中でも一握りの王級オメガだけが持つ、本来ベータには効かないはずのフェロモン、アルファたちを翻弄する「女王蜂」の素質だった。

 だが、その様子を扉の影から見つめる黎の表情は、氷のように冷え切っていた。

「……汚い手で触るなよ」

 黎がボソリと呟いた言葉は、誰にも届かない。

 午後三時。
 
 オフィスのテレビでは、依然として「WTB(世界保健機構)」のニュースが流れていた。

『――今回の一斉検査により、従来のα(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)の定義が再構築されました。特に、これまでベータと誤認されていた個体の中に、極めて稀少な特級オメガが含まれている可能性が……』

(またその話かよ。関係ねーっての)

 誠はあくびを噛み殺し、昨日投函した検査キットのことを思い出していた。
 
 自分はひ弱なベータだそれは間違いない。

 このコンプレックスまみれの身体が、そんな希少で高貴なもの(?)であるはずがない。

 だがその時、オフィスの自動ドアが勢いよく開いた。
 
 入ってきたのは、警察官数名と、見たこともない「黒い制服」を纏った物々しい一団。

「業務中失礼。西條誠さんはこちらですか?」

 リーダー格と思われる、氷のような冷徹な目をした男――九条が、鋭い視線で誠を射抜いた。

「え、俺? 何かしましたっけ? 駐車違反ならこの前……」
 
「西條誠さんだね? 君の検査結果について、国家安全保障に関わる重大な数値が検出された。直ちに我々と共に来てもらいたい」

 静まり返るオフィス。
 
 誠は呆然として、手に持っていた栄養ドリンクの瓶を落としそうになった。

「は? 国家安全保障? いやいや、俺、ただのサラリーマンなんですけど。っていうか、今から打ち合わせが……」
 
「拒否権はない。君は今日この瞬間から、日本の――いや、世界の『最優先保護対象』となった」

 九条の手が誠の細い手首を掴む。
 
「ちょっと待てよ! 男に触られるのは嫌なんだよ! 離せ!」

 誠が身をよじって逃げようとしたその時、黎が二人の間に割って入った。

「失礼ですが、強引すぎませんか。彼は私の先輩です」

 黎の放つ気圧が、一瞬で変わった。
 
 普段の温厚な後輩の姿ではない、九条という猛獣を前にしても一歩も引かない、真の強者の威圧感。

 九条は黎をちらりと見て、不敵に口角を上げた。
 
「……ほうこれはこれは一宮家の。だが無駄だ。これはオメガ保護法に基づく命令だ。特に西條誠は特級オメガ『女王蜂(クイーンビー)』――この国を、そして人類を救うための唯一の鍵だ」

 誠の耳には、その言葉が呪文のようにしか聞こえなかった。

(じょ、女王蜂? ……何それ、美味しいの?)


       

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